「ポツンと一軒家」というテレビ番組をよく見ています。
山奥の一軒家を目指して、取材班が訪ねていくものです。
そこに住んでいるのは、先祖代々の土地と家を大事にいまだ生活をしている一家だったり、都会から移住してきて、土地を買い、自分で家を建てている男性だったりします。
一見すると不便そうな山の中で暮らしている姿は、興味深くて、取材を受けた人たちは、みな充実した生活を送っているように見えます。
ですが、田舎に育ったそしがやからするとこういうのは、田舎生活のポジティブな面だけしか取り上げていないような気もします。
田舎生活には、ネガティブな面も実際はあるのも事実です。
そんな田舎のネガティブさから逃れた男性の記事を読みました。
「父と祖父が校長でした。祖父は地元の名士として知られ、父は祖父を見て自然と教職を選んだようです。私は有名人の息子として、どこへ行っても『安村先生(仮名)のお孫さん』『安村先生の息子さん』として特別扱いされていました」
40代の男性、安村祐樹さん(仮名)は、地元の名士が祖父や父だった環境に育ち、中学から不登校になり、高校を中退しました。
その後、大検を経て大学に通い、いまは、ふつうに働いています。
祐樹さんが不登校になったのは、中学校に入ってすぐ学級委員と学年委員長に選ばれたことがきっかけでした。もともと控えめな性格で、小学校のときはのんびり過ごしていたのに、成績がよかったためか、先生から「長」に指名されたのです。
担任から責任ある「長」に任命されたのが、負担になったようです。
ですが、担任は、父とは、違う派閥だったので、その悩みを父には言えなかったといいます。
その後、中1の夏休み明けから、祐樹さんは不登校になります。
母親が手を尽くして担任を異動させ、中2からは別の教員が担任になりましたが、それでもなぜか祐樹さんは学校に行けませんでした。
すると「せっかく担任を異動させたのに」といって、今度は両親が先生たちから責められたそうです。
「でも中3の春からは、何事もなかったように学校に行くようになったんです。なんで行けるようになったのかは自分でもわからない。うまく説明できないんですけれど」
不思議なことに中3からは、通学できるようになりましたが、地元の進学校へ入ると今度は、また行けなくなり、すぐに退学してしまいます。
祐樹さんは、違和感や疎外感を感じていましたが、それは、祖父や父が地元で「有名な教育者だったことが」が影響していたとのことです。
「小学校のとき寒い日に、なんとなく思いつきで袖なしのランニングシャツで友達とそばを食べに行ったんですね。そうしたらすぐに『安村さんのところは、こんな真冬でもランニングを着せてスパルタ教育だ』っていう噂がすぐに広まって。母親から『あんた、ランニング着てそば食べたでしょ』と言われました。
田舎では、何をしてもネガティブな噂になってしまい、それがイヤだったようです。
引きこもり生活が続きますが、心配した姉が東京に呼んでくれ、一人暮らしを始めます。
そこで心療内科に通うようになりますが、その時に大検に合格します。
そのことが何よりもうれしかったといいます。
そのあとには、一流大学へ入学します。
その後、司法試験を目指しますが、それはうまくはいかなかったものの大学を卒業することができました。
「何でも『こうじゃなきゃいけない』という感じだったのが、ありのまま、現実を受け入れてくれたんです。僕は父や母の考えていたような優等生ではないけれど、僕なりに自分の人生を生きていけばいい、と思うようになってくれたみたいで」
そんな中、父が変わります。
心療内科の主治医が父と話すことがあったのではないかと祐樹さんは、推測しています。
また公立校を退職後、私立学校の校長になったことも影響しているようです。
父にとっては、与えられた予算を使って、学校を運営していくことが楽しかったようなのです。
祐樹さんは、現在投資家として生計を立てていますが、その投資を教えてくれたのは、父でした。
本当は銀行家になりたかったという言葉を、父が70歳になった時に聞きます。
祖父の手前、教員になった父の葛藤を知って、二人の間の気持ちが通い合います。
「みんな、ちゃんとしているんですよ。僕が住んでいるあたりは、そんなお金持ちはいないんだけれど、人の悪口を言う人なんてまずいないし、皆さん仲良くやっている。言ってもしょうがないんだけれど、××(地元)の人たちにも、東京の人たちを見習ってほしい」
最後は、祐樹さんはこのように発言しています。
そしがやも田舎育ちなので、この気持ちは、分かります。
無論、東京にもイヤな面があり、無条件でいいわけではないのも確かです。
とはいえ、祐樹さんが大人になり、自分で好きな場所に住むことができるようになり、不快な人間関係から離れることができたという結論には、ホッとしました。
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