そしがやのリタイア日記

リタイアした公務員の日々の生活を書いていきます。学生生活、投資、などなどです。

高齢者は適当な時に死ぬべきなのか?

人は、いつかは死ぬものですが、その死に時をめぐって、作家の曽野綾子氏が産経新聞で書いたコラムと週刊ポストが掲載した記事がネット上をにぎわしているようです。

産経新聞のコラムでは、曽野氏が「90代の高齢者がドクターヘリを要請した」という話を引き合いに出し、「何が何でも生きようとする利己的な年寄りが増えた」と指摘しています。

それを受けて週刊ポストは、「高齢者は“適当な時に死ぬ義務”を忘れてしまっていませんか?」という記事を掲載しました。
ネットでは、曽野氏への反発のコメントが多いようですが、msnニュースで見たコラム記事が一番共感できました。

 

高齢者は適当な時に死ぬべきなのか?

 

すこし紹介します。

「人は平等に命を救うべき」それは絶対的な正義なのか?
 僕が指摘したいポイントは大きく2つある。

 まず1つ目は、曽野氏へ反論する人たちの論拠だ。おそらくその反論の背景には、「高齢者だろうが何だろうが、人は平等に命を救うべき」という思想があると思う。「それが絶対的な正義である」と疑ってかかったことがない、という印象だ。

 しかし、これは少なくとも欧米一般の考え方とは異なる。これについては以前に、当連載の第115回でもお伝えしたことがあるが、欧米ではいわゆる「寝たきり老人」がいない。それは生きる力をなくした老人は「殺してしまう」からだ。たとえば、イギリス、デンマークなどでは自力で食事ができなくなった高齢者に対し、延命のための胃ろうは施さない。スウェーデンも同様。また、肺炎を起こしても抗生剤の注射はしないという。ニュージーランドでは、ある年齢(たしか75歳だったと記憶している)を越えると病気になっても治療しないそうだ。つまり、「人間は死ぬべき時に死ぬべき」という考え方だ。

 

ちょっと欧米の例は、日本人には厳しいような気がしますが、逆に「寝たきり老人」が多い日本の例もどうかとも感じます。

自分が寝たきりになったら、どうするかというのも、重いテーマですが、延命が本当に幸せかな、とも思います。

 

「社会に貢献していない人たち」という誤解
 そして、僕が指摘したい2つ目のポイントは、彼らの主張のなかにある「社会に貢献していない人は死ねと言うのか?」という点。これも「かわいそう」という「正義」による誤謬だ。ここで言う「社会に貢献していない人」は現役引退した高齢者だけでなく、障害者や引きこもりの人たちを想定していると思われる。そしてその根底には、「社会に貢献していない人たちはかわいそう」という感情が潜んでいる。しかしこれはある種の差別意識だし、このような当事者を無視した同情、憐みが、逆にひどい差別を生むこともある。

(中略)

 曽野氏を批判するブロガーの多くは「社会に貢献していない人は死ねというのか?」と怒るが、僕自身は社会に貢献できなくなったらとっとと死んでしまいたいと思っているし、これまでの社会貢献活動でわかったことだが、社会に貢献していないと思われている当事者のほとんどが「社会に貢献できる人間になりたい」と願い、そうなれない自分に苦しんでいる。

 

「社会に貢献していない人たち」ということで言えば、そしがやもリタイアしているので、そういう人になるかもしれないですね。

このコラムの作者のように社会に貢献できなくなったら死んでしまいたい、とはまだ思えませんが、作者が言うように社会に何らかの形で貢献したいとそしがやは考えています。

 

このコラムの作者は、曽野氏の発言に反論する人に批判的なようです。

曽野氏は、以前の発言でも物議を醸し出しましたが、高齢化社会のスピードが世界一速いこの国で、死という重くて、微妙なテーマを考えるきっかけにはなったようです。

 

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