昨日、東京都庭園美術館へ「マスク展」を見に行ってきました。
アフリカ、オセアニア、アジア、アメリカのマスクを展示したものです。
実をいうと「マスク展」のほうは、それほど面白くはなかったのですが、会場の東京都庭園美術館に関心を持ちました。
美術館は、もともとは旧皇族の朝香宮邸だったのですが、その美術館がすばらしかったのです。
建物は、ヨーロッパの貴族の館のようで、戦前に個人の邸宅として建てられたものとは、思えないくらいの立派さです。
当時の皇族の豊かさがしのべます。
まわりの敷地も広くてきれいな公園になっています。
家族連れの人々が芝生に寝転び、連休の一日を楽しんでいます。
室内は、一つ一つの部屋の装飾も豊かで食堂には、暖炉があって、当時の生活が思い浮かびます。
個人個人の寝室が見事なのは当然ですが、喫煙室や客用の豪華な食堂もあって、すこしあこがれてしまいます。
このような豪華な邸宅を見るとだから日本は民主化されて、貧富の格差がなくなってよかったという意見が出てくると思います。
といっても、戦前と比べての話です。
現在でも貧富の格差はあるのは、勿論です。
でも、そしがやは、これだけの立派な建物や敷地が現在も残されているのを見るとやはり貧富の格差は必要だったのではないかと思えてくるのです。
ちょっと誤解を招くような発言ですが、これだけの建物を現代人が美術館として楽しめるのは、戦前の圧倒的な貧富の格差があったのではないか。
東京には、いくつか大きな公園がありますが、その前身は、大名などの豊かな権力者のものです。
例えば、文京区にある六義園は、江戸時代の有名な柳沢吉保の邸宅跡です。
あるいは、江東区にある清澄庭園は、もともとは大名屋敷で明治になってから三菱の岩崎弥太郎が整備したものです。
ほかにもいくつかの公園がありますが、もともとは権力者の屋敷だったものがほとんどです。
大阪には、よく公園が少ないといいますが、それは、町人に町だったからという説があります。
東京の前身の江戸のように大名などの権力者がいなかったから、町人は、公園になるような広大な土地を持てなかった。
だから大阪は、広い公園が少ない、緑に恵まれていないというのです。
なるほどと思ってしまいます。
江戸では、権力者による富みの蓄積が広い公園や邸宅を生んだということでしょう。
その蔭では、貧しさに苦しんだ庶民がいるはずですが、現代人が楽しめるのは、その富みの象徴である邸宅跡や公園だけです。
そう思うと貧富の格差も必要だったのかな、などと考えてしまい、何か複雑な気持ちになってしまいます。