現在は、健康のためによく歩くようにしています。
一日当たり8000歩程度を目標としています。
ですが、それ以外のスポーツは、していません。
スポーツクラブへ行く人もいますが、それほどスポーツそのものが好きではないし、お金もかかるので、スポーツクラブには、興味はありません。
興味がない理由を考えると、学生時代体育が苦手だったことが関係しているかもしれません。
体育の授業が苦痛に近いものだったからです。
ですが、社会に出てからは、体育が苦手だったことで困ったことは全くありませんでした。
そんな人たちの気持ちについて書いた記事を読みました。
「学生の頃、とにかく体育の時間がイヤだった」という投稿者。「走るのも球技も体操も、全部苦手」で、マラソン大会はいつも下位。球技は「戦力外」で特に「体操が一番苦手」だったという。理由は「みんなが見てる前で演技させられるから」とのことで、憂鬱な思い出は上げればキリがないようだ。
そしがやもほぼ同じ体験をしていますね。
体操の授業は、投稿者と同じように特に苦手でした。
ほかの人ができるのに、自分だけできないのは、屈辱的でした。
どうせならスポーツ実施組と座学組を選択形式にすればいいのにとか、健康増進が目的なら苦手な人は5分くらいのウォーミングアップだけやればいいとか、とにかく得意も苦手も「みんな一緒に」はナンセンスという考えのようだ。社会人になればサッカーゴールをキメる場面があるでなし、
「運動ができないことで不利益を被るっていうのが学生時代特有の経験だったことがわかる」
との結論に達していた。
体育が得意な人間も苦手な人間も同じ授業を受けるというのは、学生の頃は、当たり前だと思っていましたが、今考えると、クラスを分けてもよかったですね。
数学などは、当時もレベルでクラス分けしていたのですから。
「苦手なものに折り合いをつける賢さも大事」という声も
一方で、苦手なものでも経験する意義を説く人も多かった。「子供の頃に苦手なことを一切やらせないのは反対。得手不得手が分かるし、(中略)苦手なものに折り合いをつける賢さって、大事だと思うんだけど」
確かに、苦手だからと避けてばかりでは学びの機会は半減する。
これらも確かに言えそうです。
社会人になると得意なこと以外のこともしなくてはいけないことが多いのは、間違いないです。
不得意でも折り合いをつけるのは、大事なことでしょう。
コメントには、「体育はできなくてもいいけど、適度な運動を習慣づけられる何かが必要。特に中年期以降」といった意見も多い。年齢を重ねるほど、基本的な体力・健康維持のため適度な運動が必要になる。こればかりは体育が苦手でも関係ないことだろう。
とはいえ、適度な運動は、健康維持のためには、大切です。
最後に結論付けているように、こればかりは、体育が苦手でも関係ないですね。
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