数日前に以前の職場の同僚が亡くなったというメールを別の同僚からもらいました。
この頃は、こういう連絡をもらうことが多くなりました。
60歳を超えたので、周りの知り合いの年齢もそれなりのものになり、亡くなる人も増えてきます。
冠婚葬祭では、結婚はもうほとんどありませんが、葬儀の連絡だけが頻繁です。
と言っても、葬儀へは、行きません。
出席するのは、極近い近親者のものだけです。
そしがやと同じような考え方の人の記事を読みました。
およそ葬儀というものにはノコノコ出掛けるものではない。故人、家族、親族と日頃から親密な付き合いもないのに、義務感だけで出掛ける。愚かとしか言いようがない。
70歳も過ぎると、葬儀の案内、連絡がたびたびくるようになる。よほどの葬儀には出ることになろうが、そうでない葬儀が多すぎる。たいていの人が、葬儀という場には似つかわしくない“信じられない場面”に出くわすのではないか。
筆者が書いている葬儀の信じられない場面というのは、故人のことを悲しむというよりも何か社交場のように考えている人が多いということです。
故人のことを偲ぶというより、関係のない話をしていたりすることです。
ゴルフの約束をしている人や仕事の話をしている人もいます。
確かに以前、出席した葬儀でもそういう場面が多かったです。
そしがやも何か違和感を感じたことを覚えています。
故人をしのぶのなら葬儀に参列せずとも、自宅で心静かに、しみじみと時間をかけて故人を思い起こし、心のなかで故人と語り合い、合掌するだけで十分なのではないかと思う。そのように思い起こし、語り合うことが、故人を「蘇生」させることにもなろう。
筆者は、こんな風に考えています。
そしがやも同感です。
故人を偲ぶなら、自宅でしみじみと思い出すだけで充分だと思います。
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