通学の途中でターミナル駅を通るといつもたくさんの人の並んでいる窓口があります。
それは、宝くじ売場です。
時どき、PR用のティッシュペーパーを配っているときもあります。
そしがやは、ちらっと見るものの今まで宝くじを買ったことがありません。
今後も買うつもりもありません。
それは、宝くじが割りに合わないと思っているからです。
約50%を地方自治体が取ってしまい、残りの50%が宝くじの原資になっているというのをわかっているので、これだけで絶対損だと思ってしまいます。
「宝くじは、愚者の税金だ」と言った人がいます。
確か橘玲の著作だったと思います。
橘玲公式サイトを探してみたら、やはりそうで、以下のような記事がありました。
>ところで日本の宝くじは、平均的な期待値が47円と恐ろしく低いことが特徴です。サマージャンボを3000円分買ったとすると、その瞬間に1590円が日本宝くじ協会によって差し引かれてしまいます。これほど割に合わないギャンブルはほかにはないので、「宝くじは愚か者に課せられた税金」と呼ばれるのです。
正確には、「愚か者に課せられた税金」でした。それに原資は、47%です。
>宝くじを買うひとは誰もが1等当せんを期待するでしょうが、その夢がかなうのは交通事故で死ぬ確率よりもはるかに低いのですから、購入者が合理的であれば、大金持ちになる前に交通事故死してしまうと考えて買うのをやめるはずです。それでも膨大な数の宝くじ愛好家がいるのは、自分の人生にはとてつもなく幸運なことが起きるかもしれないが、それほどの不幸はないだろうと楽天的に考えているからです。
確率は、限りなく低いので、そしがやは買いません。
でもそれでも買う人がいるのは、なぜでしょう。
夢を買う、という人がいます。
確かに当選したときのことを考えると幸せになれる気がします。
でも、当選して、何億もお金が入ったときに、本当に幸せになれるでしょうか。
>宝くじに関するもうひとつの皮肉は、当せんしても幸福になれるとはかぎらない、ということです。アメリカでは、宝くじで何億円も当てると、新聞やテレビに顔写真付きで大きく報道されます。ところがこうした“幸運な”当せん者を追跡調査すると、人生の満足度が大きく下がっているケースが多いことが知られています。
宝くじで大金を手にしたことがわかると、遠い親戚や昔の知人がおこぼれに預かろうとつぎつぎとやってきます。そうした申し出を拒絶していると、親しい友人関係までもいっしょになくしてしまい、放蕩三昧で当せん金を使い果たす頃には、自分にはなにも残っていないことに気づくのです。
これは、アメリカの例ですが、日本は場合はどうなんでしょうか。
まわりに宝くじで何億も当たったという人がいないので、わかりませんが、アメリカの例とそんなに変わらないような気がします。
当選は公開されないものの、わかってしまうでしょうから、アメリカと同じような結果になってしまうのではないか。
つまり人間関係も崩し、お金も短期間で使い果たして、何も残らないということです。
でもそしがやは、宝くじ売場に並んで買う人のことは否定はしません。
当たるかもしれないという夢を見て、約50%の税金を払ってくれるのですから。
税金は、払いたくないのが普通なのにも関わらずです。